凛烈

ここ最近、寒い日が続いているが、今日は特に寒かった。僕の地元の金沢では雪が降っているらしい。確かに、外に出てみると、空気が痛い。そんな寒い日に、僕は二条駅の隣にある商業施設にケンタッキーを食べに向かっていた。僕の住む駿台の寮から二条駅に行くには、二条城まで行って、地下鉄の二条城前駅から、二条駅まで行くというルートが近いと思う。その道中、僕は受験について考えていた。僕にとって、受験とは何であろうか、と。

 

包み隠さず開示すると、僕は現在3浪だ。世間一般の認識では、よく言えば、受験のベテラン、悪く言えば、3回受験して落ち続けた無能だ。それでも、3浪してしまったのは仕方ないので、今回の受験で大学に受かれば、とりあえずは良いだろう。しかし、前回の記事で書いた通り、僕が志望校に受かる望みは薄い。ところで、唐突だが、僕は投資家でもある。少額ではあるものの、資産を運用して、それで利益を得て、税金だって払っている。投資の世界で大切だと言われることは色々あるが、その中でも特に大切なのは「損切り」だろう。損切りとは、投資した銘柄が想定と異なり株価が下がってしまい、損失が出てしまったものを売ることで、損失を確定すると共に、それ以上、損失がでないようにすることだ。投資家としての僕は、今、僕は受験において「損切り」すべきだ、と言っている。つまり、受かる見込みのない大学を志望し続けて何浪もするのではなく、諦めて、受かる大学に行くべきだと。投資家でなくとも、合理的な判断ができる人ならそう考えると思う。一方で、別の感情もあるのだ。僕にとって、受験とは特別なことなのだ。いかに受験が特別であるかを説明するために、僕の人生を振り返りたいと思う。僕の初めての受験は幼稚園だった。金沢大学の附属の幼稚園を受験した。都会に住む皆さんには馴染みのないことかもしれないが、僕の住んでいた金沢では、幼稚園から高校まで金沢大学附属である人のことを「純金」と言って、エリートコースとして確立されていたのだ。僕は「純金」だったのだ。また、「純金」になるには、幼稚園に入っておしまいでもない。高校に上がることのできるのは、中学の生徒数180人に対して、60人だけなのだ。僕はその60人の中でも上位に位置しており、周りからは、僕は東大に行くものだと信じて疑われなかったし、僕自身、大学は東大に行くものだと思っていた。しかし、僕は高校で不登校になってしまった。なぜ不登校になったか書くと、長くなるので、今回は割愛させていただくが、不登校になるまで、僕はこれまでの人生を勉強に捧げてきたつもりだし、だからこそ、東大に行くものだと強く信じていた。したがって、僕にとって受験は単なる受験ではない。文字通り、人生をかけた生き方の問題なのだ。この厳しい寒さもいつか春の訪れとともに暖かくなるように、僕の長い浪人生活にも春が訪れることを願ってやまない。